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ロープアクセス専門|無足場の高所作業は株式会社4Uにおまかせ!
全国出張可能
営業時間9:00〜18:00

― つながりが、未来を動かし始めた ―

第八章:その先にあった「絆」という答え

レインボーブリッジを終えた私たちは、
しばらくその余韻に浸っていた。
ある種、夢を叶えた、と言ってもいい仕事だった。

あの工事を機に社員の数が増えていた。
「レインボーブリッジを一緒にやりたい」
そう言って仲間に加わった社員が、何人かいたのだ。
しかも経験豊富なベテランたち。即戦力だった。
4Uは、明らかにパワーアップしていた。

だが、
それ以上に心に残ったのは、
あの現場に集まった24人のうち、
半分が協力会社の職人だったということ。
ひとつのプロジェクトのために、
共に準備をし、トレーニングをした。
そしてあの日、志をひとつにして、
あの困難を乗り越えた。

あの時、私は知った。
社内だけじゃない。
周りにいるロープワーカーたちとも、
一丸となって戦える。
会社の枠を越えても、強い絆は生まれる。

ONE ROPE。

この感覚が、
次の私の行動を決定づけていった。

第九章:コロナ禍とRWCの始まり

2020年4月。
レインボーブリッジから、3か月後。

その時、日本は、そして世界は、
コロナという未知の脅威に包まれていた。

国内初のロックダウン。
初めて体験する緊急事態宣言。

現場は中止になり、全てが止まった
誰もが不安を抱えていた。

「このまま、日本はどうなるんだろう、、、」

そんな空気が、
街にも、業界にも漂っていた。

私は思った。
こんな時こそ、仲間と繋がりこの苦難を乗り越える時だ。

このロープ業界には、
横につながれる場所がなかった。

それどころか、
各団体が対立し、分断されているように見えた。

だから私は、
カテゴリーにこだわらないコミュニティーを作ろうと決めた。

ロープのやり方が違ってもいい。
流派が違ってもいい。

それぞれのスタイルを認め合い、
お互いの仕事をリスペクトし合える場所。
それが必要だ。
そのイメージを、私は膨らませていった。

周りに話してみると、返ってくる言葉はみな同じだった。
「それ、必要だよ」
「そういう場所が欲しかった」

そして、
世の中が最も落ち込んでいた、コロナの緊急事態宣言の最中に、
覚悟を決めて、この業界に変革の狼煙を上げた。

ロープワーカーズコミュニティー(RWC)の発足だ。

第十章:SNSがつないだ全国のロープ

最初は、
近くにいる会社から声をかけた。

集まったのは、4社。
そこから、Instagramを使って、
全国のロープワーカーたちに声をかけていった。

会ったことはない。
顔も知らない。

それでも、
同じロープを扱う仲間だ。

「私達とつながりませんか?」
「助け合い、共に成長できる業界にしませんか?」

その呼びかけに、
多くの人が反応してくれた。

理念に共感した人が、
さらに仲間を呼んできた。

グループLINEにどんどん人が集まってくれた。
北は北海道、南は九州、沖縄。
気づけば、全国にネットワークが広がっていた。

目的は、営利でもない。
ただシンプルに、助け合う業界にしたかった。

ただ、
この仕事をかっこいい仕事にしたかった。
若者が憧れる仕事にしたかった。

私がやりたかったのは、
そんな「カルチャー」をつくることだった。

RWCは、
札幌、仙台、東京、大阪、名古屋、広島、福岡、
全国各地で交流会を行った。
仲間を増やし、熱く語り合った。

気づけば、
400人を超えるロープワーカーが、
ひとつの輪の中にいた。
合言葉は「ONE ROPE」

ロープ業界最大のコミュニティーになっていた。

第十一章:人が育ち、会社が変わる

RWCが拡大する中で、会社もまた、
大きく成長していった。
未経験者も次々と入社し、若い社員が増えていった。

ベテランたちは苦労したと思う。
現場の生産性は落ちたが、
数年先を見据えた投資だった。

若い世代の意見が、社内に増えていく。
建設業は、若い人が続かないと言われる。
だが私は、それは若い彼らの意見を尊重していないからだと思っていた。

ベテランが正しい訳でも
若者が正しいわけでもない。

お互いに歩み寄り、学び合い、許し合うこと。
その文化を、会社に根付かせていった。

やがて、若い社員たちに、
職長を任せる時が来た。

それを言い出したのは、
ベテラン社員たちだった。

正直、私自身は不安だった。
だが、彼らの言葉を信じた。

その信頼に若い職長たちは応えた。
みるみる成長していった。

大型現場をこなし、ベテランがそれを支える。
この頃、会社は本当の意味で力をつけていったのだと思う。

思い出深い出来事のひとつが、
建設職人甲子園で優勝したことだ。

建設業の会社がそれぞれの想いや取り組みを発表し、
全国予選を勝ち抜いて決勝でプレゼンテーションを行う大会。

私たちもエントリーし、
社員と対話を重ねながら、
会社の理念やビジョン、
なぜこの仕事をしているのかを改めて言葉にしていった。

予選では動画制作があり、
社員一人ひとりに台本なしでインタビューを行った。
飾らず、かっこつけず、
仕事への想いをそのまま語ってもらった。

その動画は高く評価され、
私たちは決勝へ進出。
動画はYouTubeにも公開され、
後にその動画を見て「ここで働きたい」と言ってくれる人も現れた。

決勝では、ロープアクセスの特性を活かした映像と、
壇上でのプレゼンテーションを行い、
私たちは優勝することができた。

ロープアクセスはニッチな仕事だと言われる。
だが、この優勝を通して、
その価値と魅力が少しずつ社会に伝わっていくような気がして、
素直に嬉しかった。

第十二章:学びの拠点、ラボの誕生

4Uにとって次のステップは、
自社でトレーニング施設を持つことだった。

埼玉県新座市にその場所をやっと見つけた。
豊島区・早稲田にあった倉庫を離れた。
それまでは都心を拠点としていたが、
郊外に離れることになった。
少し不安はあったが、
事務所、倉庫、そしてトレーニング施設。

全てが揃う場所だった。
ここを拠点にさらに成長できる。
そう確信した。

そして、自分たちのためだけではなく、
全国から、ロープを始めたい人が集まる場所にしたかった。

2016年に立ち上げた協会で始めた講習会を
ここで引き継いだ。

講習会だけじゃない。
装備が揃い、現場を支援し、
技術者や新しく参入してくる企業をサポートする。

新しい取り組みとしてここに、ロープアクセスラボが生まれた。

同業者を育てるなんて言うことは、本来無謀な事だ。
だが、私たちは、業界が発展しなければ、
4U自体の成長もないと考えていた。
だからまずは、業界のために何ができるかを考えた。
そのための選択と行動を常に模索していた。

日本各地に、
ロープアクセスラボのような拠点があれば、
業界はもっと速く成長する。

だから私は、
同じような志を持つ会社を、
積極的にサポートするようになった。

物販のメーカーやディーラーを紹介し、
イベントの企画にも協力した。

自分たちだけが成長するより、
業界全体が底上げされる方が、
ずっとワクワクした。

第十三章:成功から、貢献へ

いつしか、
私達の中で軸が変わっていた。

自社の成功だけでなく、業界に貢献することを重視していた。

業界に何を残せるか。
次の世代に、何を渡せるか。

全国での交流会、RWCの拡大。
ラボの企業サポート事業。
そして、
日本ロープ高所作業協会の設立。

そうした取り組みが、
少しずつ人の目に留まるようになった。

メディアに取り上げられ、取材を受け、
声をかけていただく機会も増えた。

2024年には、
多摩信用金庫主催の
「多摩ブルー・グリーン賞」で
優秀賞を受賞と東京都産業労働局長賞を受賞。
そして、
経済産業省・中小企業庁が選定する
「はばたく中小企業・小規模事業者300社」を受賞することが出来た。

法政大学で講義をさせていただく機会や、
リフォーム産業フェア、倫理法人会での講演も経験した。

これまでやってきたことが、
間違っていなかった。
そう認めてもらえたようで、
素直に嬉しかった。

ロープアクセスという特殊な現場での挑戦。
そして、会社づくりと業界づくり。

それらが、
ひとつの形として結実し始めていた。

そしてRWCの仲間の協力のおかげで、
各地でコミュニティーが細分化され自走を始めた。

バラバラだったロープ業界が、
相互支援をするカルチャーを持ってまとまりつつある。
これは私がずっと夢見てきた世界だった。

しかし、まだ途中だ。
流れは生まれているが、
ここからが本番であることもだんだんと分かってきた。

後編へ続く、、、、

 

日本一のロープアクセス工事会社を目指しコツコツ挑戦中

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