4Uのこれまでの事を記しておく。
私、代表上田が2010年に独立してから2020までの10年間を前編とした。
4Uの物語
-ロープの先に未来はあった-
第一章:自由と挫折
25歳で九州から上京してきた私は自由そのものだった。
登山ガイドをしながら、窓拭きのブランコ作業を気ままにやって過ごす日々。
毎年お金を貯めては海外の山へ向かい、バックパッカーの旅を楽しみ、心を解き放ち、自由に生きる事を謳歌した。
人生は思いのままに進んでいく――そう信じて疑わなかった。
20代最後に見据えていたのはヒマラヤだった。
そのためにトレーニングを重ね、心も身体も山へ向けて研ぎ澄ませていった。
しかし、いくつもの事情が重なり、その夢を諦めざるを得なくなった。
あれほど目指していた山を、自分の意思で手放す。
それは、人生で初めて味わう本格的な挫折だった。
そんな空白の時間に、ひとりの女性に出会う。
音楽イベントに友達と行った時に紹介された。
知り合ってすぐに付き合い始め、私たちはその一年後に結婚し、ほどなくして第一子を授かる。
自由に生きてきた私は、家族という現実を背負うことになった。
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第二章:ゼロからの独立
登山ガイドと窓拭きのアルバイトを辞め、
私はロープの仕事で独立することを決めた。
家族を養うためでもあり、東京で自分がどれだけ通用するのか本気で勝負してみたかった。
2010年4月、上田装業として独立。
やるからには絶対にあきらめない。
そう腹をくくったものの、現実は厳しかった。
金も、コネも、信用もない。
あるのはロープを扱う最低限の技術だけ。
まさに丸腰の状態で荒野に立った気分だった。
周囲からは反対された。
それも当然だったと思う。
自由気ままに生きてきた私が、
真面目に仕事に打ち込む姿を、誰も見たことがなかったのだから。
それまで登山や遊びに注いでいた時間とエネルギーをすべて仕事に注ぐことにした。
私の人生は大きく方向転換し、ある意味ここでゼロから始まった。
独立したものの、車を買う金もなかった。
田舎の親父に電話をかけ、30万円を借りた。
18万円の軽バン・エブリイを買い、
道具は知り合いから安く譲ってもらい、なんとか形を整えた。
だが、仕事の予定は真っ白だった。
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第三章:洗い屋の時代
「どうせ窓を拭くなら、景色のいいところがいい」
そんな理由で、湘南、葉山へ車を走らせた。
マリーナ、クラブハウス、別荘地。
ガラスが多そうな場所を見つけては、飛び込みで営業をした。
関係者以外立ち入り禁止のマリーナに、
こっそり入り込んで怒られたこともある。
不法侵入だと叱られながらも、仕事をくださいと引き下がらなかった。
チラシを配り、頭を下げ、話を聞いてもらう。
だが、仕事は一件も取れなかった。
唯一、「見積もりを出してみて」と言われたクラブハウスはあったが、見積書の作り方も知らず、ノートを破って手書きで提出し、
「なんだこれは。パソコンで作って送ってくれ」と叱られた。
独立初日は、みっともなくて、情けなくて、
今思えば笑ってしまうような一日だった。
それでも、ガラス屋、塗装屋、防水屋、
周りの知り合いの助けを借りながら、なんとか食いつないでいった。
次第に外壁洗浄の仕事が入り始める。
結果を出すために、ただひたすら真面目に、丁寧に一所懸命に仕事をした。
そのうちに信頼を得て、紹介が増え、
「洗い屋」としての仕事が、2年目頃から安定していった。
洗い屋は、マンション大規模修繕の中でもハードで、
難しい技術が求められる仕事だ。
腕のいい業者は意外と少ない。
そこに、私はチャンスを見た。
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第四章:ロープアクセスとの出会い
足場とロープの両方の現場、
「洗い屋」の仕事を進める中で、ひとつの限界を感じ始めていた。
この洗いという仕事は、自分と同じレベルで仕事ができる仲間を増やせるだろうか。
技術は継承できるのだろうか。
そんな迷いの中、転機が訪れる。
それまでのブランコ作業とは違う、
海外式のロープアクセスとの出会いだった。
応援に来てくれた職人が持っていたその技術と装備は、
最初は大袈裟で、重く、扱いにくそうに見えた。
IRATAという国際資格がある事を知った。
だが話を聞くほどに、安全性、合理性、思想の深さに引き込まれていく。
直感的に感じた。
「これからはブランコじゃない。ロープアクセスの時代が来る」
私たちはロープアクセスがこの国で発展していくビジョンを描く事ができ、盛り上がった。
IRATAをやろう。
これからはロープアクセスだ。
しかし周りの会社の社長には理解されなかった。
長年ブランコでやってきた職人たちにとって、
考え方を変えることは簡単ではなかった。
否定されて、孤立した。
それでも私は決めた。
理解されなくてもいい。
自分たちだけでやろう。
私たちはIRATA資格を取得しロープアクセスという新しいシステムを取り入れた。
そして外壁修繕工事とロープアクセスを組み合わせた最初の現場。
6階建てのテナントビルだった。
外壁全面のシール、塗装、防水。
すべてをやり切ったとき、
確かな手応えと自信が芽生えていた。
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第五章:4U誕生
ロープアクセス、外壁修繕、そして仲間。
挑戦の始まりのすべてが揃った。
2016年7月11日。
株式会社4U設立。
会社名に悩んでいた時、
「For you」という言葉は、
突然、空から降ってきた。
自分のためではなく、誰かのために。
お客様のため。
仲間のため。
業界のため。
社会のため。
尊敬する経営者、稲盛和夫氏の「利他の心」。
その想いを、会社名に込めた。
足場の仕事はやらない。
ロープ専門でいく。
何をやるかより、何をやらないか。
差別化一点集中で、勝負する。
ロープと言えば 4U。
そう言われる存在を目指した。
そして、
足場との共存。奪い合わず、活かし合う。
建設業の中で我々の役割を見出すこと。
お互いの弱点を補い合う相互支援の関係。
それが、4Uの哲学だった。
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第六章:業界のために立ち上がる
株式会社4Uを設立する少し前、
2016年2月。
私はもうひとつの挑戦を始めていた。
一般社団法人 パラレルアートテクニック設立。
目的は明確だった。
ロープ作業の価値を高めること。
そして、この仕事を「危険で珍しがられる仕事」ではなく、
社会に必要とされる専門技術として認めてもらうことだった。
当時、ロープ作業に関わる業界団体は存在していなかった。
横のつながりもなく、
技術も安全も、各社・各個人の自己流が多い。
どの業界にも、
労働災害防止、資格制度、交流、情報共有を担う団体がある。
だが、ロープ業界にはそれがなかった。
「ないなら、自分たちで作ろう」
そう思い、
同じ志を持つ仲間の社長2人に声をかけた。
返ってきた言葉は共感だった。
「俺も同じ事を考えていた」
こうして3人で、協会は立ち上がった。
2016年は、ロープ高所作業特別教育が制度化された年でもあった。
ロープ作業が、初めて国に“仕事”として認められた年だ。
この流れは偶然ではない。
これからロープは、確実に社会に必要とされる。
その確信があった。
協会では、ロープ高所作業特別教育を中心に、
年に数回、15~20人規模の講習会を開催した。
だが、現実は甘くなかった。
各社とも本業が忙しく、
協会活動に割ける時間は限られていた。
会員制度を作る余裕もなく、
仲間を増やす仕組みも整えられなかった。
そして何より、
自分たち自身がまだ、
業界から「信頼される存在」ではなかった。
理念も、ビジョンも、
今振り返れば、まだ弱く、曖昧だった。
協会は次第に活動を縮小し、
最終的には解散という選択をすることになる。
挑戦は失敗だった。
だが、無駄ではなかった。
「業界のために何かをする」
その原体験は、
この後のRWC、そしてJSRへと確実につながっていく。
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第七章:レインボーブリッジ
2020年。
4Uにとって、
そして私自身にとって、
忘れることのできない仕事が舞い込んできた。
レインボーブリッジ塗装工事。
それは、
史上初のロープアクセスによる施工。
前例のない挑戦だった。
準備期間は、1年。
まずは千葉の外房に、
レインボーブリッジの一部を原寸大で再現した巨大なモックを作った。
そこにロープを張り、
実際の安全対策、施工方法、レスキューを何度もシミュレーションする。
1番の問題は現場が、海の上。
風が吹き荒れる場所だ。
下見に行った日は、
風速10メートル以上は当たり前。
15メートル、20メートルの強風が吹く。
「本当に、ここでロープができるのか?」
チャンスは一度きり。一日しかない。
強風や雨が降ったら全ての準備は水の泡となる。
準備に準備を重ね、
そして迎えた当日。
2020年1月11日。
その日、風はなかった。
空は青く、信じられないほど穏やかだった。
神様はいる。
そう思わずにはいられない、奇跡のような天候だった。
首都高は24時間完全封鎖。
朝のニュースでも報じられた。
集まった職人は24人。
4Uの12人と、信頼できる協力会社の仲間12人。
お台場側と芝浦側、
2つの主塔に分かれ、
3人1組、8チームに編成。
基本は、2人がロープで降り、
1人が休憩をして、交代しながら行う。
何度も練った計画。
だが、現場は生き物だった。
想定より時間もかかった。
体力は削られていく。
体調を崩す者も出た。
「このままでは、作業が終わらない」
焦りが広がる中、
誰かが言った。
「3人で降りよう」
休憩がなくなる。負担も増える。
だが、誰も反対しなかった。
「俺が行く」
みんなが自分が行くと言った。
弱音を吐く者、後ろを向く者は、
誰一人いなかった。
この仕事をやり切る。
その想いだけが、現場を動かしていた。
私は、胸が熱くなった。
もう涙が止まらなかった。
なんて、かっこいい職人たちなんだ。
なんて、誇れる仕事なんだ。
ロープの先にいるのは、
ただの作業員じゃない。
この仕事に夢と誇りを持ったプロの男たちだ。
夜中の12時、工事は無事に完了した。
全てをやり切ったロープの職人たちは、笑顔で誇らしげだった。
後日の打ち上げ、
完成したレインボーブリッジを見に行き、
みんなで酒を飲んだ。
語り合い、笑い合い、
胸を張って、あの日を振り返った。
上田装業として独立してから、10年。
4Uとして歩んできた道の、
ひとつの到達点だった。
だが、これは終わりではない。
次の挑戦の始まりだった。
後半へ続く、、、、

